平成24年1月20日、当事務所の穂積弁護士が弁護団の一員である遺棄毒ガス・チチハル事件の第7回控訴審が東京高裁で開かれました。
*当該事件についての概要は穂積弁護士の事件ノート『中国チチハル・遺棄毒ガス訴訟』をご参照ください。
http://www.mklo.org/public_html/mklo/html/archives/52.html
第一審の判決は「旧日本軍による化学兵器の遺棄は不特定多数の地域に及んでおり、日本政府としてもこれを把握していない。チチハル市に埋没してあることを知り得なかったのだから、この事故を未然に防ぐことは出来なかったので責任はない。」というものでした。
「沢山ばらまいて、どこに埋めたか分からないので責任ありません。」
???
私にはこの理屈が理解できませんが、この理由で地裁では原告敗訴となってしまいました。
そこで今回の争点は「それでは、事故を防ぐために地域特定の調査は十分になされてきたのか。」です。
証言台に立ったのは外務省の元責任者、現責任者の2名、そして原告(控訴人)の一人である王成さん。
外務省のお二人の証言の要点は「現にある危険、既に発見されている化学兵器の廃棄・処理を優先していて、それに全力を注いでいたのでチチハル市のような未発見の場所の調査にまで着手できなかった。」ということでした。
処理と調査を同時進行するというのは、国家機関をもってしても、果たしてそれ程に難しいことなのでしょうか。
その主張に対し原告(控訴人)弁護団の反対尋問では、いかに調査体制が不十分であったかが明らかになっていきました。
協同で調査にあたっていた当時の防衛庁からの報告書が不十分であったと認識していたにも関わらず具体的な再調査の依頼はせず、過去に国会で提言された経緯があったにも関わらず、元兵士等への聞き取り調査は一切行われなかった。
代理人が示した、遺棄場所の特定につながる関係文献についても、その日初めて存在を知った、と証言しました。
私の感覚の中では、第一審判決が通用することが仮にあるとすれば、それは遺棄場所の特定調査が十二分に行われていた場合のみですが、この様ないい加減な姿勢では到底納得ができません。
一方、王成さんの証言では事故当時の様子や、現在も続く様々な健康被害が陳述され、この事故が、どれほどまでに犠牲者の方々の人生を狂わせてしまったのかが如実に伝わってきます。
閉廷後には報告集会が開かれ、王成さんへのインタビューも行われました。
「大変緊張していて前夜もほとんど眠れなかったが、当日も大勢の支援者で溢れた傍聴席は私の味方であると弁護団から伝えられ落ち着くことができました。」
「裁判官の印象は真剣に聞いてくれているという印象でした。裁判官には是非この事件をきちんと重視してもらいたい。」
「現在も体調が悪い日が続き、記憶力も落ちてきています。周囲の人たちが支えてくれることがなによりの慰めです。」
「事故に遭い一番辛かったのは、私が病気になったことでストレスもあったのか、父親が3年前に亡くなったことです。」
「(事故後に生まれた)まだ幼い自分の子どもには私のような病気にはならずに、どうか健康に成長して欲しい。」
そして日本の支援者へ対しては「本当に感動しました。本当にみなさん感謝しています。私が被害を受けて以来こうしているのも皆さんのおかげです。」と語られました。
王さんへのインタビュー前には、事故直後、犠牲者44名の中で危篤患者として報告された2名の内の一人として王成さんの名前が挙げられていたことが伝えられ(もう一人名前を挙げられていた李貴珍さんは事故の18日後にお亡くなりになりました)王さんにとって事故から今日までの時間が、いかに苦しいものであったか想像されます。
そして、昨年12月15日、原告のお一人であった曲忠誠さんが、毒ガスが原因と見られる肝臓ガンにより45歳という若さでお亡くなりになりました。
報告集会では、弁護団が中国を訪問した際、曲さんの病室で撮影されたVTRが流されました。その中で最も印象的だったのはベッドに横たわる曲さんから、裁判所及び日本政府へ伝えたい事、として語られた言葉の中にあった「もう私たちの苦痛は限界にきています。」という一言でした。なんの罪もない人たちをこんなにも苦しめ、ここまで放置してしまった。日本国民、延いては私個人に向けて発せられたように感じました。この2ヶ月後に曲さんは亡くなったのです。
日本政府が責任を認めず、言い逃れを続けている、こうしている今も犠牲者の方々は日々耐え難い苦痛を味わい続けており、一刻も早い救済が求められます。
次回は2月21日に法廷が開かれ、そして3月23日には最終弁論。いよいよ結審となります。