1月30日(日)、鈴木弁護士のコラムでもご紹介していた、「弁護士フェスタ in KANAGAWA」のプログラムの一つ「取調過程の全面可視化を目指して~足利事件に学ぶ」と題するミニシンポジウムに参加してきました。
当事務所の神原弁護士がコーディネータを、鈴木弁護士が司会をつとめたこのシンポジウム。足利事件の元被告人として17年以上にわたって拘束されていた菅家利和さんが、朝早くに足利を出て、横浜まで来て下さいました。
菅家さんご本人を目の前にして、あらためて、“冤罪”がいかに取り返しのつかない被害であるかを感じました。
そして、捜査機関の強引な取り調べもさることながら、なによりも裁判所に強い憤りを感じました。裁判所には、この冤罪事件を防ぐ機会が何度もあったのではないか、少なくとも、もっと早い段階で冤罪の可能性について具体的に審理することができたはず、と思わずにはいられませんでした。
一方で、当時の新聞記事などを調べてみると、目を覆いたくなるような「犯人視報道」です。当時私は小学生で、この報道をリアルタイムで見た記憶はありませんが、「これを見て、冤罪の可能性について思い至ることができたか」と言われると、とても自信がありません。
しかし、菅家さんが初めて裁判で“やっていない”と言えたのは、「支援者があらわれたから」だといいます。
その支援者の方は、足利にお住まいの一般市民、見ず知らずの方だったそうです。拘束されている菅家さんに“あなたはやっていないのではないか、やっていないのならやっていない、と言って下さい。”と手紙を書き、面識のない方だったために一度は菅家さんに断られながらも面会にいらして、菅家さんの「やっていない」という言葉を聞いて「やっぱり」と確信し、街頭で菅家さんの無罪を訴えるなどの活動をされた、とのことでした。
初めて菅家さんの「無罪」を信じたのが法曹関係者でなく一般の方だった、というのは皮肉なことでもありますが、とても希望のある話でもある、と私は思いました。
人権、は専門家だけが扱えばいいというものではありません。というより、わたしたちひとりひとりが知ろうとし、こころを傾け、思いを至らせることがなければ、冤罪も、きっと戦争なんかも、なくなる日は来ないのではないでしょうか。
この日は、大阪で任意同行された男性に対する警察官の取り調べを録音したICレコーダーの音源も聞くことができました。ニュース番組等でも驚きをもって取り上げられたので、お聞きになったことのある方も多いかと思いますが、
「警察なめたらあかんぞ!」
「おまえのことやぞ!」
「おまえの家族のとこにも全部ガサ行くぞ!」
など、何の取り調べをしているのかすらわからない、ただの恫喝です。
この恫喝(これは7時間続いたそうです)のような「取調べ」のさきに得られた「自供」をもとに進められてきた裁判があるのかと思うと、いったい今までどれほどの冤罪が埋もれてきたのか、と暗い気持ちになりました。
シンポジウムでは、イギリスの例を紹介し、取り調べを可視化して自白率が下がったということはなく、裁判で十分に通用する証拠とするために、取り調べ技術が向上した、とのことでした。
取調過程の全面可視化はさけられない―
シンポジウムのタイトルそのまんまですが、今できなかったら、もう実現されないのではないかと思うくらい、あらゆる状況は全面可視化の必要性を示しているように思いました。
思い出したくないであろうつらい記憶をお話ししてくれた菅谷さん。当日の横浜は厳しい寒さで、薄着を心配されると、「刑務所に比べたらあったかい」と仰っていたのが印象に残りました。
今現在も冤罪で自由と時間と尊厳を奪われ続けている人がいるのではないか、わたしにもできることがあるのではないか―様々なことを考えさせられる貴重な機会となりました。