日本人で「入管」に足を運んだことのある人がどれほどいるでしょうか。
私も、つい先日まで、どこにあるのかも正確に知らなかったのですが、依頼者の方とともに、初めて横浜入管(正確には「東京入国管理局 横浜支局」)へ行ってきました。
依頼者の方は、フィリピンから来た、はにかんだような笑顔がとても素敵な女性で、私と年齢が近いこともあり、彼女は、たどたどしい(でも二年で覚えたと聞いて感心するような)日本語でいろいろなお話をしてくれました。
フィリピンまで飛行機で4時間しかかからないこと、
フィリピンには冬がないこと、
「日本の時給」が「フィリピンの日給」であること、
そして、日本人男性と結婚して日本へ移住したものの、やがて日本人の夫が酒を飲んでは自分に暴力をふるうようになったこと―。
今回、入管に行くのも、暴力をふるう夫から逃げて家を出たら、「日本人配偶者」という在留資格を取り消され、短い期限の「特定活動」という在留資格に変更されてしまったという問題を解消するためでした。
彼女は別居中の夫との離婚調停中で、次回の調停の期日は約二ヶ月後。
「特定活動」に変更されてしまった在留資格の期限は調停期日より前に迫っており、離婚の調停が終わるまでは日本にいる必要があるので延長して欲しい、という申請をしに入管へ向かったのでした。
事務所のある武蔵小杉を出て、横浜から京浜東北線で新杉田、そこからバスorタクシーで15分―
入管が近づくにつれて、彼女はどんどん不安そうな表情になっていきます。
「日本の“ニュウカン”こわい」
どうにか励ましながら入管につきましたが、順番待ちは15人。
待合にはたくさん人がいますが、窓口には職員が2人しかいません。
いかめしい顔つきの窓口の職員を見て、「この前の時と同じ人だ」と彼女はますます怯えたようす。
待つこと20~30分。ついに順番が来て、受付に申請書を出すと
「離婚調停中、と言う理由では許可は出ません。申請しても意味ないと思いますけど」と職員。
ぶっきらぼうな態度に驚き、思わず「二ヶ月後の調停期日には行くな、ということですか?」と聞き返すと、
「行くなとは言っていません。代理人を立てればよろしいんじゃないですか」
と彼女を眺めます。
その口調、強い態度にますます彼女は萎縮していきます。日本語も難しく早口で、正確な内容はわからなかったと思うのですが、その態度で「NO」ということを十分感じたようでした。
しかし、入管職員の言い分に疑問がつのります。
これでは、日本人男性と結婚した外国の女性は、暴力があって別居しても、そのとたんに日本にいられなくなるということになります。ひたすら我慢するか、それが嫌なら離婚が成立する間もなく国に帰れ、ということなのでしょうか。
暴力を振るう日本人夫は、出て行こうとする妻に「家を出たら日本にいられないぞ」と迫ることができ、暴力を振るわれ家を出た外国人の妻は、自ら調停にでて言い分を主張することもできない、ということになります。
離婚調停で日本人夫は、自分の暴力を棚に上げて「あいつには金をつぎ込んだ。金を返させるために一生離婚はしない」と主張しているのです。そのことは申請書とともに陳述書として入管に提出しました。
彼女は、夫の暴力の被害に遭い別居したものの、現在も「日本人の配偶者」であるからこそ離婚調停をしているのです。
しかし
結局、申請は受理されたものの、その場で「却下」の決定。
心配して彼女のケータイに電話をしてきた、現在彼女と一緒に住んでいる日本人女性と電話を替わり、「却下されました」と伝えると、大変落胆された様子です。
結局2時間近く入管にいた私たち。
すっかり落ち込んでしまった私に、逆に彼女の方が気を遣って、ため息をつきながらも「おなかすいたネ」と笑いかけてくれます。
帰り道、横浜駅の、彼女が乗る電車の改札まで見送りました。
何の役にも立たなかった私に何度も「ありがとね」と言ってくれる彼女に、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
「あの赤い電車?ラストまで乗る?」と不安そうな彼女に
せめても力強く「そう。あの赤い電車で終点まで乗って。」と言って何度も手を振って別れました。
今回の入管体験で、どんなにおかしいと思っても国が出した「不許可」の決定の前に為す術がないことに、私は、日頃は目に見えにくい「権力」というものの存在を否応なく感じました。
入管の待合で暇つぶしに見ていた入管パンフレットにあったスローガンは
「ルールを守って国際化」
いったい誰のための「ルール」なのか―
日本人にはなかなか知られることの少ない、日本の入管の実態を垣間見る、貴重な体験となりました。
※武蔵小杉合同法律事務所では、「カラカサン」(おもにドメスティックバイオレンスの被害にあった外国籍女性と子ども達の生活をサポートする活動をされています)と協力して外国人の人権問題に取り組んでいます。