1 「ビルマの春」はやってきたのか?
アジアで、今、最も注目されている女性。人権の闘士にして、民主主義のリーダー、そして、ノーベル平和賞受賞者。それがアウンサンスーチーさんです。
この映画は、その夫マイケル・アリスさんとの関係を軸に、アウンサンスーチーさんの半生を描いています。マレーシア生まれの女優ミシェル・ヨーが「この役だけはやらないわけにはいかない」と、友人のリュック・ベッソンを巻き込んで映画化にこぎ着けたといいます。ミシェル・ヨーがご本人にそっくりで本当にびっくりします。
私は2010年7月、この連載で映画「ビルマVJ」を紹介しました。「ビルマVJ」は2007年9月に起こった大規模な民主化デモの様子を軸にしたものでした。「ビルマVJ」はデモが弾圧された後、VJらの拘束と虐殺された僧侶らの映像、そしてその後ビルマを襲ったハリケーンの映像で終わり、「ビルマの春」が遠いことを告げていました(ちなみに、 「The Lady」は2007年のデモのシーンで終わりますが、ラストには「ビルマVJ」の映像が使用されています。)。ところが、あれから、2年、ビルマでは大きな変化があったのです。
一つは、2010年11月7日に総選挙が行われ、タンシェ議長率いる軍事政権「国家平和発展評議会 (SPDC) 」が解散して、2011年3月30日にティン・セイン大統領が就任して民政移管が行われたことです。これにより、ビルマ民衆を苦しめ続けた軍事政権が、一応(形の上でですが)終わりを告げたことになります。
もう一つは、2010年11月13日、民主化のリーダー、アウンサンスーチーさんが3回目の自宅軟禁から解放され、自己の率いる政党NLDを2012年4月1日の補欠選挙で阿東的な勝利に導いたことです。自宅軟禁を解かれたアウンサンスーチーさんは、2012年6月16日、ノルウェーのオスロで、ノーベル平和賞の受賞演説を行いました。映画にも描かれているとおり、アウンサンスーチーさんがノーベル平和賞を受賞したのは最初の自宅軟禁中であった1991年ですから、受賞から実に21年後の受賞演説だということになります。
また、2011年10月と2012年1月に多くの政治囚(いわゆる良心の囚人)が解放されたことも見逃してはならないでしょう。良心の囚人の解放は、ティンセイン政権の、民主化に対する前向きな姿勢を示す好材料ということができると思います。
このようなビルマの変化(民主化?)をどのように評価すればよいかは様々な議論があるようです。割合有力と思われるのは、経済発展の重要性に気づいた現政権が、自国のイメージを回復して経済封鎖を解き、外資企業を呼び込む等の施策をとりたいと考えたから、というものです。長年ビルマの民主化に言及されてきた根本敬上智大教授は、このことを指摘した上で「この国の民主化に向けての変化はまだ『小さな一歩』を示したに過ぎない。」と述べておられます(注1)。とりわけ、現ビルマ憲法には、軍人が議席の25%を占める仕組みになっており、しかも憲法改正の発議は議員の75%の賛成が必要だというのですから、これを変えないと本当の民主主義とはいえないでしょう。
このように、ビルマが真に民主化され、「ビルマの春」が来るのはまだ先のようです。それでも、アウンサンスーチーさんが解放され、ノルウェーで記念すべき演説をした年に公開されたこの映画には、実に、タイムリーであり、感慨深いものがあります。
2 英雄アウンサンとビルマの独立
さて、アウンサンスーチーさんとは一体何者でしょうか?これを理解するには、ビルマの戦後史、とりわけアウンサンスーチーさんの父アウンサンについて若干触れる必要があるようです。とりわけ、アウンサンが何者であるか分からないと、この映画は理解できないと思いますから、もう少し、お付き合いください。
ビルマはかつて王朝が栄えましたが、19世紀末にはイギリスとの戦争に破れ、イギリスの植民地となりました。第一次大戦頃から、ビルマにも独立の機運が高まりますが、度々鎮圧されてしまいます。そうした民族の苦難の時代、一人の若者が独立運動のリーダーとして現れました。その名は、アウンサン(1915~1947)。アウンサンスーチーさんのお父さんです。アウンサンは、学生運動を指導する中で、メキメキ頭角を現していました。
1941年、太平洋戦争が勃発します。このころ、中国との長期にわたる戦争に疲れた日本は、ラングーン(ヤンゴン)から重慶に至る輸送ルートの遮断に強い関心を抱き、ビルマの独立運動に急速に接近します。このルートは「ビルマルート」と呼ばれ、重慶の蒋介石政権を支援する物資補給路だったのです。日本軍の鈴木敬司大佐は、アウンサンとその同士に目をつけ、「南機関」と称する諜報機関(スパイ組織)を作り、アウンサンらに軍事訓練を施して「ビルマ独立義勇軍」を結成させます。アウンサンと「ビルマ独立義勇軍」は、1943年、日本軍とともにイギリスを破ってヤンゴンを制圧し、ビルマは「独立」を果たします。
ところが、最初から日本軍の指導の下に行われた「独立」は、真の独立ではありませんでした。日本軍はビルマ国内にとどまり、事実上の占領を続けました。どれだけでなく、日本兵による拷問や暴行、労働力動員や家畜の徴発などで、ビルマの民衆は苦しみました(注2)。
そこで、アウンサンは、再び民族のために立ち上がります。1944年8月に、反日統一組織を結成、連合軍とも連携しながら、1945年3月には、一気に日本軍へ反旗を翻し、ゲリラ戦闘などで日本軍をビルマから放逐しました。
その後、アウンサンは、イギリスとねばり強く交渉し、ビルマを独立に導こうとしますが、独立が果たされる直前の1947年7月19日、政敵に暗殺されてしまいます。映画は、アウンサンが当時2歳だったアウンサンスーチーさんに別れを告げ、会議の場で暗殺されるシーンから始まるのです。
この映画で、民衆のデモは、常に「アウンサン将軍」の写真を掲げています。アウンサンはビルマ独立の父であり、常に国民の尊敬の的だったのです。
3 アウンサンスーチーさんが、民主化運動に身を投じるまで
アウンサンスーチーさんは、1945年6月19日、ビルマのラングーン(現ヤンゴン)にて、アウンサンと、母キンチーの間で生まれました。映画に描かれているとおり、アウンサンが政敵に暗殺された当時、アウンサンスーチーさんは未だ2歳であり、父親のことは何も知らなかったに違いありません。
さて、アウンサンの暗殺後、1948年、ビルマはビルマ連邦として独立を果たしますが、混乱が続き、1958年、ビルマ独立義勇軍の将軍の一人だったネウィンが、国の混乱に乗じてクーデターを起こし、軍事政権を樹立しました。映画に登場する軍事政権のリーダーはネウィンという設定です。
アウンサンスーチーさんは、1960年、母のキンチーがインド大使に任命されると、一緒にインドに渡りました。1964年、19歳でイギリスのオックスフォード大学に留学し、卒業後はアメリカのニューヨーク大学の大学院に進んだのち、国連職員などの仕事を経て1972年、オクスフォード大学時代から親交のあったイギリス人男性マイケル・アリスと結婚します。当時、大学院生だったマイケルは、その後、オックスフォード大学を拠点にチベットやブータン、ヒマラヤの研究者として大成する学者でした。アウンサンスーチーさんは、マイケルとの間に2児をもうけ、主婦として子育てに追われながら、大学での研究を再開し、ビルマ文学などをテーマとした研究論文を執筆しています。その一部は、「自由」(角川文庫2012年)で邦訳を読むことができます。
1988年、主婦として子育て中心の生活していたアウンサンスーチーさんに、一本の電話がかかってきました。それは母キンチーの容態の悪化を知らせる電話でした。すぐに祖国に帰って看病することに決めたアウンサンスーチーさん。しかし、当時、祖国では民主化を求める大規模な学生デモが始まっていました。映画は学生デモが残酷に弾圧される様子を描いています。祖国の現実を目にしたアウンサンスーチーさん。人々に請われて、軍政を止めさせ、祖国に民主主義をもたらすために立ち上がります。
映画は、アウンサンスーチーさんが、同年8月26日に、シュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行ったシーンを感動的に描いています。その演説の全文は、前掲「自由」で読むことができますが(注3)、政治演説とは思えない、実に率直で分かりやすい口調に驚きます。
「わたしが今までほとんど外国にいて、夫も外国人であるために、この国の政治の分立状態をよく知らないのではないかと、考える方もおられるでしょう。私は、この演壇から、すべてを率直に、お話ししたいと思っています。外国に住んでいたというのは本当です。夫が外国人であるというのも事実です。ですが、だからといって私の祖国への愛と献身の気持ちが、少しでも阻まれたり、薄れたりしたということは、絶対にありませんでしたし、これからもありません。」
シュエダゴン・パゴダ前集会での演説シーンは、この映画の一つのハイライトですね。民主主義を求めて大勢の人が集まっている姿が、とっても解放感に包まれていると思います。「私、人前で話したことがないの」と夫にもらすアウンサンスーチーさんはかわいいし、ビルマ語を必死で勉強したであろう、主演ミッシェル・ヨーのなんとなくぎこちない言い回しが、かえってアウンサンスーチーさんの初々しさを表現できていていいと思います。アウンサンスーチーさんを見守るマイケルの姿も実にいい。
4 アウンサンスーチーの誠実さと強さ
1988年民主化デモから、シュエダゴン・パゴダ前集会に至る経過をたどる中で、映画は、アウンサンスーチーさんは、最初の演説をするまでは、家族を愛するひとりの普通の主婦に過ぎなかったこと、彼女が政治の世界に飛び込んだのはその誠実さゆえであり、その背景には、イデオロギー的な立場もなければ、経済上の利益その他一点の私心もなかったことを教えてくれます。
映画が描いたとおり、アウンサンスーチーさんは、民主化運動に飛び込むまで、子育てと介護に追われるひとりの主婦に過ぎませんでした。彼女が祖国に戻ったのは、母親の看病のためでした。ところが、母親の看病のために病院にいたところ、偶然、民主化デモが弾圧される場面に出会ってしまったのです。そして、軍事政権に弾圧される人々への深い同情が、彼女を民主化運動へと駆り立てていったのでした。
彼女の夫マイケルは、母親の容態悪化を告げる連絡に「そのとき、わたしたちの生活が永久に変わってしまうのではないかという予感がした」(注4)と書いていますが、まさに、その予感が的中してしまったことになります。
アウンサンスーチーさんが民主化のリーダーとなったのは、家族に対する愛と祖国の人々に対する誠実さゆえなのです。彼女は前記の演説の中でこう言っています。
「父が望まなかったぐらいですから、私も、政治の世界には手を染めないようにしてきたのです。政治に手を染めたくないなら、なぜ今この運動にかかわっているのかと、質問される方がおられるでしょう。答えは、現在の危機が国家全体に降りかかっているから、ということです。あのような父を持った者として、現在の状況に、目をつぶったままでいるわけにはいきませんでした」)(注5)。
わたしたちは、政治のプロと称する国会議員や官僚たちが政治を私物化し、人々の本当の苦しみを理解しようとしない場面に出会うことが少なくありません。反対に、普通の主婦や学生等が政治家も驚く程の知識と力を身につけ、政府を動かそうとする場面に出くわすこともあります。福島原発事故で露呈した政治家や官僚たちの醜態が前者の事例であり、震災や原発事故の中で地域や子どもを守るために走り回る主婦やボランティア、NGOやNPO等のリーダーたちが後者の事例です。後者の人々には、民主化に立ち上がったアウンサンスーチーさんと共通するものを感じます。政治というものに関わる人に必要な資質。それは、人々に対する愛情と誠実さなのでしょう。逆にいえば、日本の政治家や官僚に決定的に欠けているものはそれではないかと思えてならないのです。
映画で最も圧巻なのは、アウンサンスーチーさんが、兵隊に銃を向けられながら、平然と目の前を通り抜けるシーン。根本「アウンサンスーチー」(角川新書)によれば、1989年4月、イラワディ河のデルタ地帯にあるダヌビューという町で、実際に、アウンサンスーチーさんは、映画に描写された状況に出くわしたことがあるようです(注6、なお、ピーター・ポパム「アウンサンスーチー 愛と使命」(明石書店2012年)にも同様の記述がありますから、この場面はリュック・ベッソンの創作ではなく、事実だということになるでしょう。)。軍隊の「暴力」と、一人の女性の「意思の力」が正面から“衝突する”瞬間だといっていいでしょう。兵隊は、ついに彼女に発砲できませんでした。ここには、人々への愛と誠実さは、軍隊の「暴力」を跳ね返す強さを持っていることが表現されています。
彼女は、上記「自由」所蔵「恐怖からの自由」の中で、こんなことを書いています。
「人を堕落させるのは権力でなく、恐怖です。権力を失う恐怖が権力を行使する者を堕落させ、権力の鞭の恐怖が、権力に支配させる者を堕落させるのです。」(注7)
恐怖からの自由を得た者の真の強さ。学ぶべきものが多いと感じます。
5 夫マイケル・アリスという人物
こうして、アウンサンスーチーさんは89年9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指して国民民主連盟(NLD)の結成し、全国遊説を行いますが、彼女の影響力を恐れた軍事政権は、1989年7月、彼女を自宅軟禁してしまいます。
私は「自宅軟禁」という言葉の柔らかさに長年騙されていました。「自宅」なら大丈夫ではないかと。映画は、そんな誤解を吹き飛ばしてくれます。
ある朝、突如、兵隊が家を取り囲み、塀を囲い、門を封鎖する。人々を部屋から追い出し、電話線を切り、書類を焼き捨てられ、家政婦以外の訪問者は許されない。図書は国営新聞と婦人誌一誌のみしか許されない。夫と二人の息子の訪問は特別に2回許されたが、軟禁2年目以降は全く認められなくなった。そんな状態が実に6年も続いたのです。これは、「自宅軟禁」という名の拷問だと思います。
しかし、アウンサンスーチーさんは、こうした残酷な軟禁生活の中でも、「こうした孤独な軟禁生活にあっても毎朝4時30分に起床し、上座仏教の内観瞑想を1時間行い、その後はBBCの短波放送を聞き、室内運動をして、読書、水浴、掃除、室内の修繕などを行い、夜は早く就寝する規則正しい生活を送った」とのことです(注8)。
そして、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)は、1990年5月27日の総選挙で大勝し、映画で描かれているとおり、総定数485議席の実に81%、392議席を獲得する大躍進を見せるのです。ところが、なんと、軍事政権は、この選挙結果を完全に無視。新憲法の制定が先だ等としてアウンサンスーチーさんの解放も、政権委譲も拒絶するのです。
愛する妻が軟禁状態に置かれ、夫マイケルはどうしたか。ここが、この映画の主題に関わる部分です。
マイケルは、妻アウンサンスーチーさんが政治の世界に出た時から、妻に替わって子育てをし、ビラの作成など裏方を手伝い、アウンサンスーチーさんを支えてきました。妻が軟禁状態に置かれ、彼はどうしたか。彼は文句も言わずに子育てに専念する一方、軟禁状態に置かれた妻に「負けるな」と励まして軍事政権から囚人の待遇改善を勝ちとり、さらに、ノーベル委員会に妻の功績を認めるよう働きかけ、ノーベル賞受賞へのきっかけを作るのです。
1991年12月10日、軟禁状態に置かれたアウンサンスーチーさんが、ラジオで、ノーベル平和賞授賞式での息子のスピーチを聴くシーンは、この映画の最大のハイライトです。ノーベル平和賞は、マイケルと息子たちの、アウンサンスーチーさんへの最高の贈り物であり、闘いのためのエールでした。
アウンサンスーチーさんの息子、アレキサンダー・アリス君(当時18歳)は授賞式でスピーチします(注9)。
「私が第一に思うことは、彼女はこのノーベル平和賞を、個人として受けるのではなく、全ビルマ人の名の下に受けることを表明することでしょう。彼女はまたこうも言うでしょう、この賞は彼女に与えられたのではなく、ビルマの民主化のために、その幸福や自由そしてその人生を犠牲にしている全ての男と女、そして子供たちに与えられたものであると。この賞は彼らのものであり、彼らのビルマの平和と自由と民主主義のための長い戦いの勝利なのだと。」
「私たちはまた、ラングーンの幾重にも包囲された壁の中での孤独な戦いは、人間の精神を暴政や心理的圧迫から解放するための世界規模での大きな戦いの一部である、ということも忘れてはなりません。この賞は、この戦いに参加する世界中の全ての人々を讃えるものであると私は確信しています。今日のこのオスロでの催しが、国連の世界人権宣言記念日と一致したことは偶然ではないでしょう。」
この後、自宅軟禁を解かれたアウンサンスーチーさんは、マイケルに「私のことは忘れてもいい」と話しますが、マイケルはこれを退け、「僕らにはビルマという夢があった」と語りかけます。
マイケルのアウンサンスーチーに対する献身は、これに尽きないでしょう。例えば、くり返し引用している「自由」という書物は、アウンサンスーチー氏の著作をマイケルが編集し、解説したものです。マイケルはアウンサンスーチーさんを、政治の面で支えただけでなく、彼女の作品をまとめ上げて世に出すことまでしているのです。
映画のクライマックスは、マイケルが死の床に着いたときに始まります。死期を知らされたマイケルは、もう一度妻に会おうとしますが、軍事政権はマイケルにビザを出そうとしません。もし夫の最後を看取るためにアウンサンスーチーさんが一時的にビルマを出国してしまえば、軍事政権は二度とアウンサンスーチーさんの入国を認めないでしょう。国を捨てるべきか、夫を捨てるべきか。アウンサンスーチーさんは、究極の選択を迫られます。
この究極の場面で、マイケルは、アウンサンスーチーさんを「ここまで闘ってきたんだ。負けるな」と励まします。そして、マイケルは、最愛の妻に会えないまま、1999年3月17日、静かに世を去っていくのです。
軍事政権と闘う妻に最後まで寄り添う。この、マイケルのパワーはどこから来たのでしょうか?マイケルは、前掲「自由」の冒頭「真実」という文章を寄せ、こう書いています(注10)。
「最近、私は、1972年1月1日にわたしたちがロンドンで結婚するまでの八ヶ月間に、彼女がニューヨークから、ブータンにいた私に送ってきた187通の手紙を読み返してみた。スーが何度も繰り返し書いている悩みは、自分の家族や国民が私との結婚を誤解し、国民に対する彼女の愛情が薄らいだと考えないだろうか、ということだった。そして、自分はいつかビルマへ帰らなければならない。そのときには私にも、当然の義務としてではなく、心からの愛情として、救いの手を差し伸べて欲しい、ということを一貫して訴えている。」
「だから、スーから闘争を開始する決心を聞かされたときにも、驚きはしなかった。彼女の決意を援助するという、何年も前に結んだ約束を果たすときが来たのだ。」
アウンサンスーチーさんが、政治の世界に飛びこんだ理由が、「祖国を助けたい」という誠実な気持ちからだったとすれば、彼女を助けたいというマイケルの振るまいは、「約束を守る」という、極めて単純で、しかし誠意のある理由でした。
夫を看取ることより祖国の民主化闘争を優先したアウンサンスーチーさんの生き方、死を目前にした妻との面会より妻との約束を優先したマイケルの生き方。日本の人々にどのように写るのでしょう。もちろん、受け止め方は人それぞれでよいと思います。
しかし、私は、「人々に期待された仕事をやり遂げる」「人との約束を果たす」という、この夫婦のそれぞれの“誠実さ”に深く感動するところがありました。
みなさんは、どう、お感じでしょうか?
6 ビルマの未来とアウンサンスーチーさん
さて、アウンサンスーチーさんは、映画に描かれた1回目の軟禁(1989年7月から1995年7月まで、6年間)の後も、2回目の軟禁(2000年9月から2002年5月まで、1年8ヶ月)、3回目の軟禁(2003年5月から2010年11月まで、7年半)を経て、2010年11月にようやく解放されます。その経緯については冒頭で述べたとおりです。
アウンサンスーチーさんに対する誤った批判は、彼女が西洋の目線から東洋に西洋型の民主主義を持ち込もうとしているというものです。この批判は彼女が敬虔な仏教徒であることを無視したもので全く誤解に基づくものです。前掲「自由」に掲載された論文(「民主主義を求めて」)で彼女はこう述べています(注11)。
「ビルマで民主化運動に反対する勢力は、いままでこの運動を弾圧してきました。彼らは、国にとってなにが最善なのか国民に分かるはずがないと決めつけ、また、民主主義の根本思想はビルマ人本来の考えではないと批判して、この運動を押さえ込もうとしています。第三世界の国々の政府が、自由と民主主義の思想がは外来のものである批判して、自分の独裁を正当化し継続させようとするのは、決して今に始まったことではありません。」
「仏教徒の世界観では、社会が本来の純粋性を失って混乱し道徳が低下すると、平和と正義を回復させるために、王が選ばれるのです。…マハーサンマタは、人々の合意によって選ばれる支配者のことです。」「しかしながら、マハーサンマは人々の合意によって選ばれ、正しい法にしたがって治めることが求められているのですから、選挙によって選ばれる政府は、ビルマの伝統思想に相容れないはずがないのです」
「民主化闘争が目指すものの中心は人権だと気がつくとすぐ、国の情報機関は、人権という考え方を嘲笑し非難しはじめました。人権は西洋人が作り上げたもので、わが国の伝統的な価値観とあわないというのです。」「人は生まれながらに尊いもので、人間には平等で奪うことができない権利があるということを認めること、人間すべてに、生まれついての理性と良心があるということを受け入れること、人間はすべて同胞であるという考え方を進めること、どうしてそれがビルマ固有の価値基準と相容れないということになってしまうのか、分からないのです」
アウンサンスーチーさんの思想は、人権や民主主義を仏教というアジア的価値観から正当化したもので、非常にユニークです。これは仏教その他アジア的価値観の再評価につながるとともに、人権や民主主義といった価値観にさらなる普遍性を与える力になるでしょう。それは、「人権は西洋人が作った者でアジア人の価値観にあわない」「アジアには、人権を超える価値観がある」といった類の、独裁者にありがちな論理を打ち破る力になるだろうと思います。
また、アウンサンスーチーさんの非暴力主義には、インドのガンジー主義の影響も見て取ることができます(映画には、アウンサンスーチーさんがガンジーの著作を手に取っているシーンやアウンサンスーチーさんが「人類の進歩にガンジー主義は不可欠」と習字でしたためるシーンがありました。)。アウンサンスーチーさんは、同じ論文で「暴力は仏陀の教えに完全に反します」と書いています。これは、平和主義という、新たな地平へ、人類を導いてくれる思想でしょう。
他方、アウンサンスーチーさんが上座仏教の教えを厳格に守っていることからの限界を指摘する声もあります。先述の根本敬教授は、上座仏教の持つ「自力救済」的な生き方は、意思の強い人間にしかできない生き方であり、国民の彼女への支持は、彼女の思想を理解したり実践した上でのものでなく、彼女への個人崇拝ないしお任せ的なムードから生じているものだと分析した上で、「アウンサンスーチーもまた、ビルマの『国民的な誇り』としての地位は確立できるだろうが、その思想が現実のビルマ政治においてどのような実を結びうるかは不明としかいいようがない」(注12)と大変厳しいコメントをしておられます。
実際、ビルマの現状を見るに、少数民族とりわけロヒンギャ族に対する多数派ビルマ民族のによる迫害が報道される等、未だ、多くの課題が残っています。もはや、いつまでもアウンサンスーチーさん頼りでいいのか、という気もしてきております。
それでも、私は、いつまでも、心から、アウンサンスーチーさんを支持します。
女性として、アジアで最も厳しい闘争をくぐり抜けて民主主義のリーダーになり、世界の多くの人々に勇気と希望を与えてくれた彼女に。
(「The Lady~引き裂かれた愛」2012年7月21日公開 リュック・ベッソン監督)
注1 根本敬・田辺寿夫「アウンサンスーチー」(角川書店2012年)38頁
注2 アウンサンスーチー「自由」(角川文庫2012年)所蔵の論文「私の父、アウンサン」の中で、アウンサンスーチーさんは、「日本による占領の物語は、幻滅と疑惑と苦痛の連続の物語である。イギリスから離れて自由になることができると信じた人々は、今度はアジアの同胞によって支配されることになり、激しい落胆を覚えた。多くの人々は日本の兵隊を解放者として歓迎していたのだが、その正体は、評判の悪かったイギリス人以上に悪質な圧制者だった。日ごとに忌まわしい事件が増えていった。憲兵という言葉は恐れられ、人々は、突然の失踪や拷問、強制労働が、日常生活の一部となった世界で生きる術を身につけなければならなかった。」と述べている(同書59頁)
注3 前掲「自由」307頁以下
注4 前掲「自由」15頁
注5 前掲「自由」309頁
注6 前掲「アウンサンスーチー」106頁
注7 前掲「自由」282頁
注8 前掲「アウンサンスーチー」85頁
注9 http://historia-del-sueno.blog.so-net.ne.jp/2010-11-01
注10 前掲「自由」 18頁
注11 前掲「自由」261頁以下
注12 前掲「アウンサンスーチー」137頁
(参考文献)
根本敬・田辺寿夫「ビルマ軍事政権と」アウンサンスーチー」(角川書店2012年)
根本敬・田辺寿夫「アウンサンスーチー」(角川書店2012年)
アウンサンスーチー「自由」(角川文庫2012年)
西口清明「民政移管後のミャンマー」立命館経済学2012年3月60号
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/3361/1/e60_nishiguchi.pdf
アウンサンスーチー「新ビルマからの手紙」(毎日新聞社2012年)
ピーター・ポパム「アウンサンスーチー 愛と使命」(明石書店2012年)