映画評論第8回 希望の国 ~原発事故の実相を描く

※今回は、上映中ゆえ「ネタバレ」なしです。

1 はじめに

 すごい。素晴らしい!

 私は日本映画はあまり見ないんです。いわゆる「社会派」というか、「硬派」のドラマが少ないから(笑)。
 
 しかし、「希望の国」は違う。原発事故は、現在進行形の大問題であり、「脱原発か否か」という国論を二分する議論の元になっています。園監督は、この誰もが尻込みするであろう困難な素材を、正面から、決して逃げずに、そして見事に描き切ってくれました。その姿勢、勇気、本当にすごい。

 園監督は、週間金曜日(10月19日付け第916号)のインタビューに答えて、こんなことを言っています。

「今回の取材で一番多い質問が『なぜ原発の映画を撮ったのか?』なんですよ。…なぜ撮ったのか?おかしいでしょ。そりゃ、目の前で原発爆発したんだからさ、撮らない方が変でしょ。まるで僕の頭おかしいみたいに言われて。聞くなら『なぜ(他の人は)撮らないのか』でしょ。」

正に然り。映画を見る一つの醍醐味は、それが時代を分析して人々に問題を問いかける手段だからでしょう。本稿で紹介した全ての映画、「ブラッドダイヤモンド」でも「ザ・レイディ」でも、そうでしょう。だとすれば、今、原発事故を描かないなら、映画は必要ない。
園監督は言います。

「日本人の資質だと思いますね。そういうのはあえて表現に取り入れない方がかっこいいとかさ。何だろう、表現を、時代を分析する手段としては考えないってことじゃないですかね。」(前掲インタビュー)

 これは、映画に限らず、いろんな分野に共通する問題かもしれません。時代と格闘し、常に苦しい立場に立たされた人々の側に身を置く。そういう姿勢が、今、文学者でも音楽家でも、そして、法律家でも学者でも技術者でも、全ての専門家・職業人に求められているのだと思います。これを体当たりで実践した園監督に、まずは、沢山の拍手を送りたいです。

2 映画の内容と見どころ

 20××年、長島県大葉町。小野泰彦(夏八勲)は、妻・智恵子(大谷直子)や、息子洋一やその妻いずみと、一緒に牛の世話をしたり、ブロッコリーを育てたりと、平穏な毎日を送っていた。大葉町は、「原発の町」であり、繁華街には、「原発の町をようこそ」の看板があったが、小野家も隣人の鈴木家も、原発とは無縁の生活を送っていた。

 そこへ、マグニチュード8.3の大地震が発生。原発が事故を起こし、小野家と鈴木家の間には、「立ち入り禁止」の杭が打たれた。「20キロ圏内」に入ってしまった鈴木家は避難を余儀なくされる。残された小野家も、やがて息子夫婦が避難。牛も処分を余儀なくされ、幸せだった家族は引き裂かれていく。

 ある日、残された認知症の妻の耳には、盆踊りの笛の音が。他方、鈴木家の長男ミツルは、恋人とともに、20キロ圏内をさまよい歩く。

 映画のひとつの重要なモチーフが、小野家と鈴木家との間に打たれた「杭」です。

 原発から半径20キロの内外を分ける「境界」なのですが、映画は、これを原発事故が人々を引き裂く一つの「象徴」として、皮肉かつシュールに描いています。

 白い防護服で杭を打つ国の役人。「大丈夫ですか」と問う息子に、国の役人は、冷たく言い放す。
 「あんたの家は、20キロからこっち!!避難するのは20キロからあっち!!」
 「何言ってんの!空気はつながってんでしょ!」と怒る妻。

 国の原発政策の無策に対する痛烈な批判です。

 私は、まさか、こんな漫画的なことが…と思っていましたが、園監督は、実際に被災地に入り、「立ち入り禁止」の札のギリギリの所に住む実在の家族、鈴木豊子さん一家を取材して、この場面を思いついたと言います(注)。

 「ある家の真ん中が20キロの境界で、居間とトイレは警戒区域内だから入れないとか、ブラックジョークみたいな不条理な話も沢山聞いた」(東京新聞記事より)

 泰彦の息子洋一は、やがて、「杭」が家族をバラバラにしていくことに気づきます。泰彦は言います。

 「洋一。杭が打たれたんだ。国も県も守っちゃくれない。逃げろ、逃げる奴は強い奴だ。」

 洋一は、両親と自分たちとの間に「杭」が打たれたことに気づき、家を出ます。幸せな家族は、原発事故により、バラバラにされていくのです。

 これも原発事故の被災地に入ると、よく聞く話です。故郷を破壊されると、夫は仕事のある土地を求め、妻は子育てにとって安全な土地を求め、さりとて老人は故郷を離れられない。

 故郷=コミュニティーの破壊は、人と人とのつながりの破壊なのです。

 映画で、認知症の妻がつぶやく、謎の言葉「もう帰ろうよ」。
 妻は、盆踊りの日に夫におんぶしてもらい、過去の幸せな日々に帰りました。その場面(映画のポスターにある場面)は、「それでも世界は美しい」と感じさせてくれる、最高の映像美です。

 20キロ圏内をさまよい歩く鈴木家の長男ミツルと恋人ヨーコ。若い二人の姿も、私たちの心に、かすかな「希望」の光を残してくれます。

3 映画のために現地に通った監督

 映画制作のために、その監督は何度も被災地を訪れ、実際に検問所を突破したりしたそうです(書籍「希望の国」やETV特集「映画にできること」参照)。

 園監督は、言います(書籍「希望の国」20頁)。

 「人並み程度くらいは、原発に関する知識はあったけれど、そんなありきたりな情報だけで物語を作るのも意味がないわけじゃない。日々更新するドキュメンタリーや報道のような、新しい科学や経済や数字の衝撃が欲しいわけじゃない。

 ありきたりな情緒、当たり前の物語でいい。
 みんなが知っている普通の情報で十分。俺達も時代も既に、十分衝撃を受けている。
 今更「脱原発のメッセージ」を掲げる気はない。
 政治的な映画を作りたいわけじゃない。そんなものは言葉で十分だ。
 当たり前の言葉で十分、脱原発にたどり着く。

(中略)
 かといって想像だけに頼りたくもない。
 現実に起きていることを想像力で作っていこうとすれば、薄っぺらな嘘になる。
 とにかく、何度も福島に行かなければならない。そこに行って、何度も何度も福島の人々に会うのだ。
  
 土地の、雨や土や嵐や砂にまみれるのだ。彷徨う動物達の群れに会うのだ。誰もいなくなった町を歩かなくては。検問所を超えて歩くこと。自分の目と鼻と手足で、具体的に知ったことを物語にしなければならない。」

 映画は、「20××年」「長島県」を舞台にするというフィクションの形をとっています(ちなみに「長島県」とは、「広島」「長崎」「福島」を掛け合わせたものそうです)。しかし、「何度も福島に行かなければならない」という園監督の姿勢によって、映画は、細部まで、福島の現実を映し出した非常にリアルなものになっています。映画が私たちの心を打つのは、そのリアルさゆえであり、それは、園監督が時代に正面から向き合い、格闘しているからだと思うのです。

 園監督は、完成した映画を、映画の取材に協力してくれた被災者の方々に、最初にみてもらったそうです(前掲ETV特集より)。映画を見た人々はみな涙を流し、口々に「これが実際だ。悔しい」と声を上げました。

 人々の喜びや悔しさ、絶望と希望とを、そして、社会の醜さや矛盾とを、ごまかしなく映し出してこそ、本当の映画ではないでしょうか。私がこの項で挙げる映画は全てそういう映画です。園監督は、既にオリバー・ストーンやエドワード・ズウィック等、海外の巨匠に比肩しうべきレベルにいると思っています。

4 被害の実相と向き合う姿勢こそ

 私は震災後、石巻でボランティアをしたりしましたが(この様子は事務局コラムhttp://www.mklo.org/public_html/mklo/html/archives/46.htmlをご覧下さい)、今年になって、弁護士として福島に行って参りました。

 行ってみて愕然。津波に流された石巻。原発の被災地福島。同じ被災地でありながら、被害の実相は全く違う。希望のさしてきた石巻に比べ、とにかく福島には希望が見えない。とりわけ、避難解除準備地域に当たっている場所は、「もう帰りたい」という人々と、「もう帰れないのではないか」という人々の「分断」も始まり、非常に深刻な状態にあると思いました。

 そして、マスコミは次第に被災地を取り上げなくなり、私たちも、被災地の方々の深刻な被害と展望のない状況から、目をそらすことに慣れてきてしまいました。

 こんな状況下、原発被災地の実相をえぐり出した「希望の国」が封切られたことには重要な意味があると思います。

 園監督は、こんなことを言っています。

 「僕は本当なら東宝が作ればいいと思うのですよ。東宝級の原発映画を全国の拡大ロードショーにすれば、もっと原発の問題を考える人が広がるわけで、大いにやって欲しいですよ。」(週間金曜日のインタビューから)

 たしかに。園監督も言うとおり、映画が社会問題を多くの人に考える、いいきっかけになればいい。そして、「東宝級の原発映画を全国の拡大ロードショー」が期待できない以上、私は、まず、「希望の国」を大ヒットさせれば、と思うのです。

 だから、みなさん、「希望の国」を見に行きましょう!!
 是非、大ヒットさせましょう!!
 まだまだ、時間はあるはずです!!

 最後に、福島の被災者の被害を細部まで描き出した、園監督の芸術に対する姿勢を見事に表した「数」という詩を引用して終わります(著作権の問題もあるでしょうから一部だけ。全文は書籍「希望の国」などを参照。)。

 被災地の被害の実相に、「何かを正確に数える姿勢で」向き合うこと、一つでも正確な「一つ」(これは一人一人の命を指すでしょう)を数えることこそ、今、私たち法律家にとっても大切だ、との自覚を込めて。

……………

 「数」(抜粋)

 まずは、何かを数えなければならなかった。

 草が何本あったかでもいい。全部数えろ。

 花が、例えば花が、桜の花びらが何枚あったか。それが徒労に終わるわけない。まずは1センチメートルとか距離を決める。ひとつの距離の中の何かを数えなければならない。

 その町の人口が何人だとか、その小学校に何人いたか、とか、例えばその日のその時間に何匹の虫が、何匹の蝶が、何匹の蟻が、何匹の芋虫が、いたか、をきっかり、調べるべきだ。俺の嗅ぐ匂いは詩だ。政府は詩を数字にきちんとしろ。

 涙が何滴落ちたか、その数を調べろ。

 今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、その今度とは、今から何日目かを数えなければならない。その日はいつか、正確に数えろ。もしくは誰かが伝えていけ。

-自分を数えろ。お前がまず一人だと。

「膨大な数」というおおざっぱな死とか涙、苦しみを数値に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。

季節の中に埋もれてゆくものは数え上げることができないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。一つでも正確な「一つ」を数えてみろ。

………………

  (「希望の国」 園子音監督 2012年)

(注)後掲の書籍「希望の国」には、鈴木さんは、「田中さん」と記載されているが、おそらく、こちらは仮名であり、鈴木さんの方が本当の名前だろう。

参考
・週間金曜日(10月19日付け第916号)
・東京新聞10月24日付特報面
・書籍「希望の国」園子音 ㈱リトルモア2012年9月19日
・NHK ETV特集「映画にできること 園子温と大震災」2012年9月30日放送
・「希望の国」映画パンフレット


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